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72回目の原爆の日 [行事]

今日は、広島に原爆投下された日。
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祖父は、当時、広島の爆心地1キロの自宅(官舎)で被爆し、娘を失い、
自らも九死に一生を得ました。その祖父の体験記です。

今回、今から50年も前に鬼籍に入った祖父の体験記の抜粋を毎年読んで、
この日を迎えたいと思います。


「原爆の記録」(昭和44年 広島高等・地方検察庁合同編纂)より
 <体験記  原爆の前後  正木 亮 >

 わたしは原爆について筆をとる気力はない。多筆のわたしとしてはもっと書いても
よさそうなものだが、書く気がしないから書かないのである。
 
 なぜ、あなたは書かないのですかとよくいわれる。わたしは一度だってお答えした
ことがない。今、ここにどうしても書かねばならないはめになったので、まずなぜ
いままで書かなかったかをここで言いわけをしておこう。わたしは原爆というあんな
惨虐な、むごたらしい、地獄の鬼でさえ使わないような武器の被害については口にする
のもいやだからである。あんなむごたらしい人殺し弾を生みだした科学が憎いからである。
一発何十万人という人間を殺す弾を使って、天使のような子供たち、無抵抗な婦女子までも
殺したアメリカのやり方が憎いからである。

 昭和二十二年八月六日、わたしは広島控訴院検事長官舎でこの弾を受けた。わたしの
娘、甥、女中とが各々違った場所でこの弾を受けた。そしてその中でわたしひとりが
今まで生きながらえて、三人の者は即死したり、一ヶ月後に死んだりして、一家の中で
わたし一人が生き残ったという惨酷な境遇におかれた。それだけでもわたしがアメリカの
やりかたをにくむ気持ちはわかるだろう。又それについて筆をとらない気もちもおわかり
になるだろう。

 しかしわたしは考えた。いくらアメリカが憎くても、原爆を生み出す科学が発達する
限り仕方がない。アメリカに抗議したり、戦争を仕かけてもどうにもならない。それよ
りもアメリカの人道を発達させて、それを使わないように働きかける以外に方法はない。
そういう片意地から、わたしは原爆について筆をとらなかった。

わたしは前回の勤めから転勤する途中で病で妻を失い、独身生活を送っていたので、
今回の赴任は日本女子大の二女の倭子をおろして、女中の三人で赴任してきた。
その頃の検事長官舎は広大で古かったので、三人だけでは淋しくてしかたがない。
甥の県立一中生を連れて来て同居させたがそれでも淋しい。そのため若い検事たちが
毎晩のように遊びにつめかけて来るようになった。常連は枇杷田、渡辺、楠野、立石
等々の若い検事たちだった。とくに楠田検事は毎晩来て、晩餐をともにしたものである。
二女の倭子や女中の仲は「楠野さん!わたしの家に来なさいよ」とすすめるのでご自身も
その気になり、八月七日に引っ越すことを決意し、明晩は楠野さんの歓迎会だとはしゃいだ
ものである。
 他方地検の立石検事は毎朝早くやって来て太田川の岸辺にある官舎の広い畑にトマトの
苗を植えるし、野菜をつくるし大活躍、後には若い検事や書記の諸君まで集ってとても
賑やかなわたしの家であった。
 
 八月五日の晩も楠野検事たちが集まり、にぎやかな夕食をすませ、では明日また、
楠野君、あすはわが家の一員だよといってわかれた。
 嵐あとの静けさである。その時である。広島では始めての警報サイレンである。
あわてた。しかしその後B29は現れず、朝を迎えてほっとする間もなく6時半頃
また空襲警報が鳴り響いた。
 7時半になって警報解除。娘は高等女学院に登校し、わたしは玄関で脚絆をつけ
靴をはいていると真っ暗になった。 暗闇のなかに埋められていた。土を堀り堀り
二メートルもすすむとやっと大地に出た。四面火に覆われている。女中の仲(なか)
がいない。わたしは土を掘り、彼女を掘り出してふたりは火をさけながらついに
太田川に飛び込んだ。

 周囲の火がおさまったのは12時頃であろうか。邸内に顔の皮のむけ、手の皮の
はげた若者たちがどやどやとなだれ込んだ。そして次から次に倒れ死んだ。太田川に
添った岸辺につかまった避難民も次ぎ次ぎ流れて死んでいった。

 娘の倭子(しずこ)の行方がわからない。広島刑務所の今枝君と林君とが来て探し
まわった結果、広島女学院のピアノの鍵盤の下に真白い白骨となって発見された。
その後の報告で、楠野、武井、千頭、佐藤君という若い検事たちが爆死されたと
聞いてわたしは奈落に突き落とされた気がして涙がとめどなく流れた。

 その翌日からわたしは骨拾いの先頭に立った。かわいた八月の真夏の太陽は
とてもあつかった。毎日毎日石をおこし、瓦をはねのけ遺骨をさがしつづけた。
広島の廃墟の原頭に立って本当に悲しい遺骨さがしであった。

 八月十五日正午 天皇の全国民に告げられた玉音放送が流れて来た。たえ難きを
たえ、忍び難きを忍んでここに終戦する旨のお言葉であった。本当に涙なくして
聞くことは出来なかった。あの玉音放送を拝してわたしは可愛い可愛い娘の死に
ついて恨みをもつことが出来なくなった。日本民族はもう一度立ち直ろうという
心がもり上がってきた。

 結局、わたしはその翌年の春 名古屋控訴院検事長に転任した。そのときすでに
当時一緒に住んでいた甥の義虎も原爆で死に、女中の仲とふたりきりの転任であった。
その後、その仲も原爆症でこの世を去った。ともに住んでいた受爆者4人のうち3人
までがそのために死んで了った。

 こんな残酷な兵器を人類が持つということは結局人類破滅の導因である。
こんな兵器をつくる国こそ野蛮である。この野蛮を喰いとめる発言力は広島県人以外
にない。広島人はその声を永久に続けなければならない。原爆禁止運動はやめては
いけない。そしてその運動はお互い力を合わせて、つづけていかなければいけない。

                (当時 広島控訴院検事長 正木 亮


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